今日も古墳日和 by 多田みのり

第27回 無数の穴は住居?お墓? 考古学の発展と共に研究が進んだ吉見百穴(埼玉県・吉見町)

【古墳プロフィール】
名  称:吉見百穴(よしみひゃくあな)
古墳の形:横穴墓
時  代:6世紀後半~7世紀後半
整備状況:国指定史跡として整備
入園料 :大人300円、小学生200円、小学生未満無料
入園時間:8時30分~17時(入園は1630分まで)、年中無休
URL:https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/shogaigakushuk/7/909.html

「この穴が古墳なの?」

そんな声が聞こえてきそうな、不思議な景観が広がる吉見百穴。「よしみひゃくあな」と読みます。

丘陵一帯が凝灰質砂岩という掘削に適した岩盤が広がっていて、
このような無数の横穴墓が掘られました

吉見百穴は、古墳時代後期から終末期に造られた横穴墓です。江戸時代中期にはすでにその存在が知られており、明治時代に入ると地元の郷土史家をはじめ、オーストリアの外交官で考古学者のヘンリー・シーボルトや、大森貝塚を発掘したエドワード・モースなどが訪れて調査しました。が、先住民族の住居やアイヌ人の住居、朝鮮人のお墓などの意見が出され、その性格は判然としませんでした。

そこで1887(明治20)年に、東京大学大学院生だった坪井正五郎がすべての穴を調査し、岩山全体で237基の横穴が確認されました。坪井はこれらを住居と考え、さらに古墳時代の人々が墳墓に再利用したとする説を唱えます。当然ながら反対意見も多く、住居か墳墓か、学会を二分する論争となりました。しかしその後、古墳時代の研究が進み、また各地で同じような横穴が発掘調査された結果、住居ではなく横穴墓であるという結論に至ったのです。

第二次世界大戦中は地下軍需工場が作られ、数十の横穴が破壊。
今も工場跡の大きな穴を覗くことができます(立ち入りは禁止)。

ところどころに解説板があり、読んだことをすぐに観察して学べるので、
巡りながら少しずつ横穴墓に詳しくなれます

戦後になると、地元の人々の間で保存会が作られ、県立松山高校郷土部の学生が中心となり、測量調査が行われます。この結果、残存する219基の横穴の形態を分類しそれぞれの数を確かめ、一穴ずつの実測図や全体の分布図が作成され、横穴墓の作られた年代やどのような階級の人がこの墓を作り、どんなふうに埋葬されたのか等の研究が進んでいきました。

こうしてみると吉見百穴の歴史は、伝承や憶測ではなく発掘による事実とその分類に基づいて、考古学という学問が発達していく過程そのものとも考えられます。

玄室内には棺座とよばれる遺体を葬るベッド状の施設が設けられているものも。
これが複数あることから「追葬」されていたことがわかります。

玄室の天井部分。玄室には後世の落書きも多いですが、
古代人が彫り込んでいった、手斧やヤリガンナの跡も残っています

現在に至るまで様々な調査研究が行われた結果、

  • ①一つの横穴墓に対し「追葬」が多く行われていたこと
  • ②斜面の西から順に4つのグループに分けると、ABCDと順を追って穴の並び方が整っていくこと
  • ③玄室の平面は8形式に分類できること
  • ④玄室の天井の形は6形式に分類できること、などがわかっています。

併設する吉見町埋蔵文化財センターでは、
吉見百穴の調査の歴史や町内出土の文化財が紹介されているほか、
勾玉や埴輪を作る体験ができます。

地主の大澤家が営む茶店などもあり、坪井の調査時に見つかった遺物も展示されています。ファミリーで楽しく歴史に触れることができる古墳です。

★古墳日和ポイント★
東武東上線の東松山駅からはバスもありますが、ハイキングがてら歩いていくと30分ほど。すぐ隣の松山城跡とあわせて歴史ハイキングを楽しむことができます。いい汗をかいた後は、東松山名物の味噌だれ焼き鳥で一杯!もおすすめですよ。

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