京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第44回 1200年前の日本の中枢跡・大内裏を歩く(京都市)

平安京遷都は、「なくよ鶯平安京」でお馴染みの794年です。平城京(奈良)から平安京へすんなりではなく、まず長岡京に遷都されます。どちらの遷都も第50代桓武天皇が行いました。

長岡京時代は天災や身内の不幸など祟りまくられたので10年で放棄、鹿狩りの折に隠密で視察し、ほとんど未開の地であった山城国へ遷都を決意されました。よほど長岡京に懲りたのか、四神相応、四将軍など風水でがんじがらめにして都を守りました。平安京だけが明治2年まで1100年近くに亘って都であり続けたのは、そのおかげだったのかもしれません。京都人にとって桓武天皇は一番身近な天皇で、平安神宮の祭神です。

最初に造営された平安宮、いわゆる大内裏(だいだいり)をご紹介します。唐の長安をモデルに建設された平安京は、左右対称の碁盤の目状の区画割のど真ん中を、羅城門から朱雀門までズバッと朱雀大路が通っています。朱雀大路はほぼ現在の千本通で、朱雀門の北が都の中枢部大内裏で、千本丸太町あたりです。

東西約1.2㎞、南北約1.4㎞で、およそ3つの施設に分かれています。

千本丸太町交差点です。大内裏の中心点近くです。

ほぼ朱雀大路にあたる千本通と千本通の縁石

西にある豊楽院(ぶがくいん)は饗宴施設で、外国使節の歓待や節会の宴などに使われました。千本丸太町の南西に、史跡が保全されています。ど真ん中にあるのが朝堂院(ちょうどういん)で応天門が入口です。8つの建物があり、政治を取り仕切っているいわば霞が関のような存在です。その奥に正殿である大極殿があります。高御座が据えられており、天皇が着座しました。国会議事堂のような役割かと思われます。

豊楽殿跡。現代の迎賓館に当たります。再現模型が京都市平安創生館に展示豊楽殿跡がさらに南へ続きます

千本丸太町のすぐ北西の公園の中に、大極殿と書かれた大きな石碑があります。朝堂院の北東に内裏があり、その中の清涼殿に天皇は暮らしていました。紫宸殿や建礼門など京都御所に名前が引き継がれ他施設がありました。

大極殿跡への千本通入口

大極殿跡の石碑。内野児童公園の北側

3度の火災で消滅し、ついに再建されませんでした。しかも跡地に秀吉が聚楽第を建てたものだから、もう跡形もありません。その後の天皇は住まいを転々とします。そこは仮内裏と呼ばれていました。ですから京都御所も皇居も仮内裏ですね?

Tag

このページをSHAREする

最新記事一覧へ