京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第4回 衰退した京都に光をもたらした琵琶湖疏水物語(京都市)

私が小学生の時(半世紀も前ですが)、4年生の社会の授業で、京都の歴史という副読本を勉強しました。副読本といっても1年間正規の教科書はそっちのけで、それしかやっていなかったと記憶しています。

平安京1200年の長い歴史の授業で、多くの時間を割いたのが、明治維新後衰退した京都がいかに立ち直っていったのかということでした。その中でも私の中で強く残っているのが疏水の開通です。今回は京都通の方でも、知らないかもしれない話をちりばめた内容になればと願っております。

京都御所に、防火用水を送るために作られた 旧御所水道ポンプ室。
手前の水門は第二疏水で、ここで合流します

琵琶湖疏水の歴史を長々と書いても仕方ありませんので、さらっと流しておきます。

疏水という言葉をご存じでしょうか?琵琶湖疏水だけをさす言葉ではなく、ほぼ運河と同義語の名詞です。したがって全国に疏水はあります。

明治14年に任命された北垣国道知事のトップダウンで始まった事業は、水不足に悩む当時50万京都市民の飲料水と、水運を目的にしていました。

工事の人材集めですが、工部大学校(現在の東京大学工学部)の校長から、当時最先端の土木工学を学んでいた田邊朔朗を紹介され、卒業と同時に工事責任者に据えます。校長とは、のちに男爵を授けられた大鳥圭介です。そして田邊朔朗の卒論のテーマは「琵琶湖疏水工事の計画」、自分の卒論が実現し、しかも若干21歳で工事のトップ責任者ですよ!

蹴上疏水公園にある田邉朔郎博士の銅像

明治18年に着工し、様々な難関を乗り越えて、明治23年に鴨川まで、明治27年に伏見までが完成しました。

琵琶湖疏水の凄いところは、日本初のオール日本人の事業。高低差36mの落差を克服し、大津から山科までの長等山トンネルは当時日本最長、当時世界最長582mのインクライン(船を台車に乗せたケーブルカーのような物)など。しかし何と言っても落差を利用した、日本初で世界でも2番目の発電所を設置したことだと思います。発電した電気で、日本初の市電を走らせました。しかも関西電力に引き継がれて、今でもちゃんと発電が続けられています。

今は使われていない現存する蹴上発電所

インクラインの台車に乗る船

蹴上発電所導水管、この落差を使って発電する

その後、水と電力需要の高まりに対応するために、並行するルートで第二疏水が全線トンネルで通されます。蹴上に浄水場が完成し京都市内に上水道が設置されます。

その事業を強力に進めたのが、西郷隆盛の息子、第二代京都市長西郷菊次郎でした。

京都市としては、蹴上発電所一帯を工業団地にしたかったのですが、うまくいきませんでした。しかしその副産物として、疏水が豊かな文化をもたらします。

琵琶湖疏水記念館から見る放水路と琵琶湖疏水

琵琶湖疏水関連施設 市営地下鉄東西線蹴上駅から徒歩3分~10分ほどに点在

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