京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第23回 清水寺を望む 阿弥陀ヶ峰に眠る秀吉 後編(京都市)

秀吉の晩年の後半です(前編はこちら)。豊国神社の宝物館に収められている秀吉のゆかりの品物の中に、なんと「秀吉の最後の歯」があります。間違いなく秀吉の物です。DNAを調べたらもっと何かわかるのでは、と思いませんか⁈

秀吉の墓を目指して東山七条交差点を東へ渡ります。少し北に京都女子大学へ向かう通称「女坂」があり、そこをひたすら山に向かって行くと秀吉の墓・豊国廟(ほうこくびょう)です。

女坂を上りきったところにある、豊国廟への石段と一の鳥居

東山七条には秀吉と深いかかわりのある智積院があります。智積院は秀吉と対立して全山炎上した紀伊国根来(ねごろ)の根来寺の塔頭でした。家康は、関ヶ原合戦の翌年の1601年に秀吉を祀った豊国社の土地に智積院を再興させて、3歳で死去した秀吉の愛児鶴松の菩提を弔う為に建立した隣にあった禅宗の祥雲寺も吸収合併させてしまいます。死後の秀吉の監視役にしたのですね。

 智積院(上)と新日吉神宮(下)

智積院の境内を抜けて女坂を登ってゆくと、新日吉神宮(いまひえじんぐう)が右手に見えてきます。後白河法皇が1160年に創建した皇室ゆかりの古い神社ですが、応仁の乱で荒れ果てていました。江戸時代、再建にあたり同じく後白河法皇が院御所にされ、後年秀吉が手厚く庇護した妙法院(東山七条北西角)から御神体を新日吉社に移されました。御神体は豊国社が廃絶されてから妙法院で密かに祀られていました。当時は方広寺、新日吉社、三十三間堂を管理下に置く「天台三門跡」のひとつで、三十三間堂は今も所管の仏堂です。境内の一部であった庭園「積翠園」は現在フォーシーズンズホテル京都になっています。

石段を上ると太閤坦。豊国廟と豊国社は以前ここにありました。(上) 
太閤坦の北東隅にある豊臣国松と松の丸殿の供養塔(下)。
国松は秀頼の子、つまり秀吉の孫で、享年8歳。松の丸殿は秀吉の側室で、
処刑された国松を引き取り誓願寺に埋葬。自分の墓所も誓願寺からここに移されました。

100数m先の突き当りにある一の鳥居の石段を登ると太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる平地が広がっていて、かつて豊国廟と豊国社がありましたが豊臣家滅亡後、徳川家康によって破壊されるところを秀吉の正室北政所の嘆願によって社殿は何とか残されましたが、明治13年修築まで300年間放置されていました。

太閤坦から秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰山頂への入口で、登拝料100円。
一の鳥居の石段から墓所まで523段!
途中踊り場や立派な門をくぐりますが、一直線です。

秀吉は清水寺遠望の地に埋葬されることを望んでいましたが、それが東山連峰の阿弥陀ヶ峰でした。山頂に明治30年に巨大な石造五輪塔完成しますが、工事の際に直径1mの素焼きの壺が出土し、手足を組んだ秀吉とおぼしきミイラ化した遺骸が入っていたそうです!

墓所の北の端から望む清水寺で、舞台や塔もはっきり見えます。
少し前は木が生い茂って視界がなかったそうです。

明治30年に建てられた墓所で、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる伊東忠太が設計。

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