京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第22回 京都にあまた残る秀吉の面影、晩年の忌まわしい足跡も 前編(京都市)

大阪の人は、豊臣秀吉を太閤さんと呼んでさも大阪人のように言いますが、秀吉の足跡はほぼ京都にあります。

お土居や洛中洛外を築き、区画を半分に分けて鰻の寝床を出現させるなど、応仁の乱から荒れ続けた京都を整備して民衆が暮らしやすい街に作り替え、今の京都の基礎を作った立役者ともいえると思います。晩年は大阪城から拠点を移した伏見城で亡くなっています。秀吉の晩年と死後が色濃く残る川端七条から東山を辿ってみます。

秀吉の晩年といえば朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)です。いくさ働きのしるしの首級を朝鮮から持って帰るわけにもいかず、代わりに塩漬けにした鼻や耳を持って帰ったとされています。1597年慶長の役から鼻・耳そぎは始まったらしいのですが、その数で戦いぶりが評価されるので、各武将は競って運んで役人が正確に数えていたそうです。

耳塚 周囲の石柵は大正4年に当時の歌舞伎役者や著名芸人達の寄付によって建立されました。
石段・焼香台もその時にできました。

耳塚は全国にありますが、実物が埋葬されているのは京都のものだけで、秀吉は1597年にこの塚を築き、京都五山の僧侶を400人呼んで施餓鬼供養をしています。今でも韓国の人によって毎年供養祭が行われています。この巨大な石塔は豊国神社の門前にあります。

陶製の秀吉像は太平洋戦争中に作られ、阪神大震災の時台座が壊れ、
蔵に保管されていましたが5月1日の現天皇即位に合わせて公開されました。
その後ろの唐門は、20円で買い取った明石博高氏が寄贈しましたが、
移築再建築費が2000円かかったそうです。

豊国神社ですが、大和大路と正面通の東、京都国立博物館のすぐ北にあります。祭神は、朝廷より豊国乃大明神の神号が与えられた豊臣秀吉で、元々は阿弥陀ヶ峰山頂の秀吉の墓の麓にありました。江戸時代荒れるに任せてあったのを、明治天皇が再興を布告され、明治8年に現地に社殿が建立。そして元は伏見城にあった唐門が、二条城から南禅寺金地院と渡り歩き、移設されました。国宝です!

鐘楼と方広寺大黒天堂

豊国神社地続きに方広寺があります。秀吉が開基で東大寺の大仏(14.7m)より大きな大仏(19m)を造りますが、開眼直前に慶長伏見地震で木造だったのがあだとなり倒壊します。秀吉の死後息子の秀頼が銅製の二代目を完成させます。

ところが開眼供養の直前で家康から延期命令が出ます。そう!完成した例の梵鐘が問題になったからです。豊臣家滅亡の引き金となった「国家安康」の鐘楼は豊国神社からも見えます。天井絵も当時のままです。

次号は東山通を東へ渡ってゆきます。

豊国神社の真東にある方広寺大仏殿跡の台座があった場所です。

国家安康の鐘 東大寺・知恩院・方広寺が日本三釣鐘に指定されています

問題になった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文

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