京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第18回 花街と飲食街の顔を持つ先斗町の成り立ち(京都市)

先斗町を知らない人は少ないと思います。
~富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりはないじゃなし~の「お座敷小唄」は先斗町の芸子と客との色恋沙汰の曲です。「先」をポンとは読めないですよね?これはもともと鴨川の中州でその先端に先斗町があり、先端のポルトガル語読みのポントからきたとか、鴨川と高瀬川の川を皮と読んで、その2つの川に挟まれた堤を鼓と読んで、叩くとポンとなるところからきたなどと語源は定かではありません。

四条通から先斗町通を北に見ます。ここから先斗町が始まります。

犬やらいがある花街の町家で、道幅は2mくらいです

京都の情緒を感じる一端に路地があります。日本ラグビー界のレジェンド故平尾誠二氏が同志社大学時代「平尾は京都の路地を抜けていくように敵をかわしていく」と言われていました。先斗町はその路地の宝庫です。金田祐一、神戸啓、先斗町まちづくり協議会両副会長に話を伺い、今回は路地を中心に話を進めていきます。
先斗町とは、三条通の1本南の龍馬通から四条通まで南北450mの先斗町通両側にお茶屋や飲食店などがひしめく範囲をさします。四条通から南も道は続きますが、西石垣通と名前を変えやがて木屋町通に合流します。

路地から先斗町通を見る

簡単に歴史に触れます。もともと鴨川は現在の河原町から始まる広い河原の中を蛇行していました。高瀬川の流れもその中にあり、そこを角倉了以が江戸初期の1610年にしっかりと運河として開削して伏見と繋げました。伏見港から荷を積み替えて宇治川~淀川そして大阪へと1本の水路が出来上がりました。
ちなみに角倉了以は京都の小学校では必ず習う人物です。物量が盛んになると、木屋町通沿いに商家が立ち並びます。西へ広げるために1670年に護岸工事で埋め立てられます。1712年頃に初めての水茶屋ができてからは、これが花街へとして発展し、1859年に芸者家業の公許がおります。商家と飲食、花街が背中合わせになっている街が形成されました。

南大黒橋通を東に見ると、手前から高瀬川にかかる南大国橋、木屋町通、
突き当りが先斗町通で先斗町歌舞練場があります

鴨川に舞い飛ぶ千鳥が先斗町の紋章で、冬に飛来するいわゆるユリカモメ

現在も先斗町は京都五花街のひとつで、花街と飲食街の主に2つの顔があります。まあ、他にも歴史ある旅館や名物物販店もあります。
次号では路地深くを紹介していきます。

路地を奥へ進むと店の入口があります

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