前編で紹介したイタリア大統領官邸の「クィリナーレ宮殿」、後編では歴史をもう少し絡めたいと思います。
クィリナーレ宮殿
クィリナーレ宮殿は、16世紀後半に教皇グレゴリウス13世が離宮として使い始め、その後、シクストゥス5世、クレメンス8世、パウルス5世、ウルバヌス8世、アレクサンドロ7世、1811年に教皇ピウス7世を追放した皇帝ナポオンの居城となりました。
ナポレオンの図書室
ナポレオン失脚後の1814年に再びピウス7世のものとなり、1870年にイタリア王国のサヴィイア家の宮殿となり、第二次世界大戦後にイタリア共和国が誕生した時に大統領官邸となりました。
タペストリーの間
各部屋に煌めくシャンデリアの数々
そして、圧巻は宮殿の大広間。大広間の壁には17世紀初頭の各国大使の姿がずらりと描かれています。そしてその中には日本人の姿も。それが、仙台藩主・伊達“独眼竜”政宗に仕えた支倉常長が率いる慶長遣欧使節団です。
1613年10月(慶長18年)に石巻から出発した慶長遣欧使節団は、スペイン領メキシコ、ハバナ、スペインなどを経て、出発から2年後にローマに到着。“世界の果て”から来た彼らは盛大に迎えられたそうです。洗礼を受けていたとはいえ、当時のローマの人たちにとってサムライはどれほど奇異に映ったことでしょう。
首が痛くなるほど高い場所に描かれている慶長遣欧使節団
夢や野望を携えた旅路だったにもかかわらず、支倉らの通商交渉はあえなく失敗。ほとんど成果を得ないまま、キリスト教の弾圧が激しさを増す一方の日本に7年後に帰国。その後、失意のまま支倉は亡くなります。
支倉らより前には、1582年にスペインやイタリアへ渡った天正少年使節団もいました。彼らはクィリナーレ宮殿を離宮とした教皇グレゴリウス13世に謁見し、シクストゥス5世の戴冠式に招かれるほど歓待を受けました。しかし1590年に彼らが日本に帰国した時はすでにキリスト教は禁教。キリシタンの彼らは迫害され、殉教したものもいました。天正少年使節団と支倉は期せずして同じ道のりを歩んでしまったのです。
宮殿を見学する日本人以外のほとんどの人は、ここに描かれた支倉常長の哀しい晩年はおそらく知らないと思います。ですが、彼が訪れた証がここに永遠に刻まれていることはとても感慨深いものです。
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クィリナーレ宮殿の見学はイタリア語によるガイドツアーのみですが、ご興味ある方は事前に予約してから訪れてくださいね。