あなたも「近代化遺産」萌え! by 関屋淳子

第32回 荒ぶる川から大都市を守った赤い水門、旧岩淵水門 (東京都・北区)

山梨・埼玉・長野の3県に接する甲武信ヶ岳に源を発する荒川は、秩父山地の水を集めながら長瀞渓谷をつくり、関東平野を抜け東京湾に注ぎます。名の通りの荒ぶる川は幾度となく地域に水害を与えてきました。江戸時代、徳川家康の命により、利根川の東遷、荒川の西遷と呼ばれる、利根川水系と荒川水系を切り離す大規模な河川改修事業が行なわれます。これにより荒川を利用した舟運が発達し、江戸は多くの物資が集まる大都市に成長します。しかし台風などの大雨により下町はたびたび浸水被害を受けてきました。

主な水害の際の水位が記されている

明治43年(1910)、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が氾濫する関東大水害が発生。墨田区・江東区・台東区などは甚大な被害を受けました。これを機に、荒川の洪水対応能力を向上させるために、荒川放水路の建設が策定されたのです。荒川放水路開削に伴い、洪水時の荒川の水を放水路へ流し、隅田川への流量を調整するために建設されたのが、旧岩淵水門、通称・赤水門です。

赤く塗り替えられたのは昭和30年代

しっかりした土台

旧岩淵水門は大正13年(1924)に完成、鉄筋コンクリート造、9m幅のゲートを5門備えます。設計には、日本で唯一、パナマ運河建設工事に関わった技師・青山士(あきら)が関わりました。軟弱な土質に水門をつくるために、川底よりさらに20mの深さに鉄筋コンクリートの枠を6個埋めて固めるという難工事を完工、昭和22年(1947)のカスリーン台風の際にもその機能を十分に発揮しました。

カスリーン台風は死者1100人、傷者2420人を出した雨台風で、荒川放水路と旧岩淵水門がなかったならば、隅田川流域でさらに広範囲で甚大な被害が起きていたと考えられています。これらについては、旧岩淵水門の近くに立つ「荒川知水資料館(amoa)」で詳しく知ることができます。

荒川知水資料館(amoa)

旧岩淵水門は老朽化や水門の高さ不足が生じたことなどから、昭和57年(1982)に新たな岩淵水門が完成し、その役目を終えました。新たな水門はその色から青水門と呼ばれ、洪水時には水門を閉鎖し、隅田川の水位上昇を防ぐ役割を担っています。

赤水門の300mほど下流に造られた青水門

 

旧岩淵水門 

荒川知水資料館(amoa

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