京都には深い井戸が幾つもある by 小林禎弘

第55回 市中の山居を感じる歴史の宝庫、吉田山(京都市)

(大文字火床から見下ろす吉田山、奥の森は京都御苑)

京都盆地の中には3つの独立した山があります。以前紹介した北の船岡山と西の双ヶ岡、そして3つ目が東の吉田山です。

場所は左京区神楽岡町にあり、南北は今出川通から緩やかに丸太町通までの800m、東西は神楽岡通から東大路通に面している京都大学の東までの300m、標高は105mで北が最も高く、今出川通にある北登山道から登るのが一番急峻です。と言っても数分で山頂に着きます。

京都の多くの場所が、神話の時代から現代までその時々に様々なことが起こり、それが積み重なってミルフィーユのように刻まれていったように吉田山もそのような歴史があります。

吉田山の吉田神社の社伝には、天照大神が岩戸に隠れたとき、諸神が神楽を奏した場所が如意ヶ嶽(大文字が点灯される山)で、事勝神と賀茂御祖神(下鴨神社の祭神)が神代の楽を奏した場所が、神楽岡(かぐらおか・吉田山の別名)と言い伝えられています。

吉田山と双ヶ岡を結ぶ直線と船岡山から南におろした直線が交わったところが大極殿の中心で、平安宮造営の基準になったという説もあります。また平安京遷都を行った桓武天皇が、康楽岡(かぐらおか)で猟をしたと記されたのが文献に神楽岡が登場した初めです。その後猟遊地として大いに知られます。

859年には藤原山陰により現在の吉田神社の元が創建されます。藤原氏の単なる氏神という存在だったのですが、子孫に藤原道長が出現したために朝廷の神事をつかさどるまでになります。

(左2点:吉田神社本殿、右:斎場所大元宮、
吉田兼倶によって全国の神が鎮座しているとされ、元日と節分の日に開かれる)

また天皇家の陵墓も多く、鎌倉時代は公家の山荘地として開発が進みます。南北朝時代に入ると度々戦場になり、足利尊氏が神楽岡に布陣して南朝と戦っています。室町時代中期には吉田神社の風雲児・吉田兼倶が新道界の絶大な地位を獲得し、吉田神社は吉田山の大半を有しますが、明治に入ると社地は削られ吉田神社も一神社になります。また江戸時代から名所地、野遊びの場となり、現在も吉田山緑地として山頂公園が整備されています。

(左:吉田山の北登り口、今出川通に面する。
中:北口からの登山道、右:山頂から大文字を望む公園)

山道然とした北入口から山頂に向かうと街中と思えない自然を味わうことができます。山頂は大文字を正面に見る広場ですが樹木が伸びすぎて少ししか見えません。

その先に現れるのが茂菴です。茂菴は全国的に有名な茶店ですが、カフェと言っていいでしょう。日本で一番好きな店という人も多くいます。昭和初期に運輸業で財を成し、裏千家の老分だった谷川茂次郎が吉田山の北東部を買い取り、茶室8棟や月見台、楼閣などからなる茂菴庭園を作り上げます。茂菴は食事をする場所という意味の点心席でした。大規模な茶会が開催されていたようです。

(左:茂菴)

「市中の山居」とは、茶の湯の用語で、街の中で山中の風情を楽しむこととの意味合いですが、ほんの少し足を延ばすだけで都会の日常から、森の中の非日常に入り込めるのが茂菴です。林の中に点在した茶室を巡って山の空気を吸いながら散策するのがすばらしいです。

茂菴から山頂公園を抜けると吉田神社への自動車も通れる参道に出ますが、ここに吉田神社の末社として知られる竹中稲荷社の鳥居が並んでいます。

(左:竹中稲荷社参道、右:竹釼稲荷社前の大明神の塚群)

昔は参拝するのに傘いらずといわれるほどぎっしり鳥居がつながっていたそうです。その奥に竹釼稲荷神社(たけつるぎいなりじんじゃ)があり、道中にはおびただしい大明神と彫られたちょっとおどろおどろしい塚群があります。どうも昔の土葬墓地の跡のようです。

東側に出ると東伏見家の別邸を使った超有名な料亭旅館・吉田山荘があります。門だけでも国の登録有形文化財に指定されています。北には後一條天皇菩提樹院陵があります。立派な空堀円墳の天皇陵です。東斜面は大文字が展望できる高級住宅街です。

(左:吉田山荘の入口門、中:後一條天皇菩提樹院陵、右:吉田山東斜面からの大文字展望)

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