今日も古墳日和 by 多田みのり

第32回 多量の武器が埋納された古墳は「天下分け目の天王山」の舞台でもあった⁉︎ 乙訓地方最大の前方後円墳の恵解山古墳(京都府・長岡京市)

【古墳プロフィール】
名  称:恵解山(いげのやま)古墳
古墳の形:前方後円墳
時  代:5世紀前半
整備状況:国指定史跡として整備
展示施設:出土遺物は長岡京市埋蔵文化財調査センターに展示
U  R  L:https://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000001139.html

京都といえばみなさんどんなイメージでしょうか。平安時代の雅な雰囲気や寺社仏閣を思い浮かべる方が多いと思います。でも、平安時代よりずっと以前、旧石器時代からこの地での人の営みは続いており、各時代の遺跡が残されています。もちろん古墳もたくさんあります。今回は京都盆地の西部、桂川の右岸に広がる乙訓(おとくに)古墳群にある、恵解山(いげのやま)古墳をご紹介しましょう。

住宅地の中にあり、すぐ脇をJR京都線が走る恵解山古墳

「乙訓」とは、長岡京市・向日市・大山崎町・京都市の一部を含むエリアを指し、古代から京都と大阪を結ぶ水上交通の要衝として、歴史の舞台にも度々登場する場所です。784年からは10年間、長岡京が置かれたことでも知られています。この地で3〜7世紀に多くの古墳が築かれ、乙訓古墳群としては35基が確認され、そのうち首長墓である大型の古墳や豪華な服装品を持つ古墳13基が国史跡に指定されています。

乙訓古墳群と恵解山古墳の位置関係と時系列を学ぶ模型も置かれている

なかでも5世紀前半に築かれた恵解山古墳は、全長約128m、後円部径約78.6m、前方部幅約78.6mで最大規模を誇ります。現在も墳頂部には墓地があるのですが、1980年の墓地拡張工事の際に前方部中央付近から鉄器が出土したことがきっかけで緊急調査が行われ、約700点もの鉄製の武器を納めた武器類埋納施設が発見されました。

周囲には幅約30mの浅い周濠があり、総全長は約180mにもなる

3段築成のテラスや造出しには約600本の復元埴輪が立ち並ぶ

出土したのは、直刀146点、鉄剣11点、槍57点以上、短剣52点、短刀1点、ヤス状鉄製品5点、蕨手刀子10点、鉄鏃472点と格別の多さ! このように多量の鉄製武器が出土することは、京都府はもちろん全国的に見ても珍しいことから、翌年には国史跡に指定されました。他に鉄製の農耕具類も多く見つかっており、武器類とは別の埋納施設もあったかもしれません。

前方部墳頂に武器類埋納施設を示した案内板があり、出土状況がわかる

その後、2003〜13年にかけての復元整備事業により再度発掘調査が行われ、古墳本来の形や、造り出しや埴輪列の存在が明らかになりました。後円部には竪穴式石室があったとみられ、被葬者はあきらかではありませんが、乙訓地域全域を支配した首長と考えられています。たくさんの武器と農耕具を持つ首長、一体どんな人物だったのかと想像が膨らみます。現在は、発掘成果を反映した恵解山古墳公園として整備され、周辺住民の憩いの場としても利用されています。

古墳に登る階段や周囲の散策路、多くの解説版が整備されている

ところでこの古墳、戦国時代にも歴史の表舞台となります。発掘調査では、後円部が曲線上に改変されていることが判明していて、後の時代に墓地に利用されたようです。そして南西側からは火縄銃の弾が、北東側からは戦国時代の土器が見つかっており、羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦の際に、明智光秀の本陣が置かれたのではないかとされています。実際に、前方部からは秀吉方の陣があったと思われる「天王山」もよく見えます。地理的に重要な地にランドマークとして作られる古墳だからこそ、のちの時代にその大きさや高さを活かして再利用される、というのは「歴史あるある」と言えるのかもしれません。

交通の要衝に権力を誇るべく築かれた古墳は、陣を置くにも最適かも?

右手の山が「天王山」。戦国武将も見た景色を変わらず見ることができる

★古墳日和ポイント★

ジョギングや犬の散歩に訪れる人も多く、近隣住民と古墳との近さを感じられて理想的環境です。ベンチも整備されているので、最寄駅のJR長岡京駅付近でお昼を調達すれば、ピクニックランチもできます。周辺の古墳をはしご散策するのもおすすめですよ。

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